> 太陽の挑戦
Our Challenge
挑戦の軌跡
創業から変わらない、
未来をつくりだす
「太陽」の想い
「技術者は、社会に役立つものをつくって、初めて技術者たりうる」。
「全世界を照らし、全地球の生命が恵みを受けている偉大な母である太陽のように、当社は、社会を照らし、人々の役に立つ存在であり続けたい」。
太陽グループは、そんな創業者・川原廣眞の想いと「太陽」という名とともに、1953年に歩みを始めました。これまでの歴史を振り返れば、この「技術者魂」が当社の成長にドライブをかけてきたともいえます。そして、「自律」を掲げ、「楽しい世界」の実現を目指す当社にとって、創業時の想いはこれからも大切にしていくべき一つの指針でもあります。「挑戦の軌跡」、太陽グループの歩みがそうあり続けるために、当社はこの想いをこれからも大切にしていきます。
歴史は語る。
太陽グループが歩んできた挑戦の軌跡。
Chapter01
創業から約20年。
レジストインキに将来を懸け、事業転換。


当社は創業から約20年にわたって主力製品である印刷インキを中心に売上高を伸ばしていた。一方でインフレによる製造コストの上昇により営業利益は低下していくと同時に、大手インキメーカーの寡占化と系列化が進み、当社を含む中小メーカーにとっては、生き残ることが難しい状態となっていた。
そんな中、後に2代目社長となる川原光雄は、お客様より「耐酸性の強いインキをつくって欲しい」との依頼を受ける。苦心の末、製品を完成させたが、実用性に乏しく採用には至らなかった。しかし、「これからは電子工業の時代であり、化学メーカーが商売にできるのはレジストインキである」と考えた川原光雄は、当時まだ入社3年目だった若き吉野篤(後の3代目社長)にエッチングレジストの組成分析を命じた。そして、1970年にはレジストインキの開発を見事成功させた。当時、レジストインキの製造実績を持つ国内の独立系メーカーは当社のみであった。
その後、創業者のあとを引き継いだ川原光雄は、全社員との会議を経て、電子産業の将来性と印刷インキで培った技術力を背景に、価格競争から抜け出し高い収益性を確保するために1976年、「レジストインキに将来を懸ける」と大きな決断をする。
知られざる裏話
創業時の主力製品は、活版印刷用墨インキ。印刷用インキの色の種類は幅広く、競合の大手インキメーカーは原料となる顔料のメーカーでもあったため、価格競争面で不利な立ち位置だった。一方で墨インキの主原料であるカーボンは、顔料メーカーでは生産していないため、大手とは原料の面では対等で、技術力と品質だけで勝負することができた。また、創業当初からの製品に偽造防止安全インキがある。これは小切手、交通機関の乗車券など、偽造されては困る証券類を印刷するためのインキだ。当時から「技術」で勝負するという想いのもと、ものづくりに励んでいたのである。
Chapter02
ソルダーレジスト、シェア獲得の背景。


レジストインキへと事業転換を決意した頃、国内の電機メーカーでは、生産拠点を海外へ移す動きが顕著になっていた。当社も、より一層レジストインキの普及を実現したいという強い想いから海外進出を決意し、1978年に台湾、1979年には韓国へ向けた輸出を開始。生産能力を拡大させるため、1982年に嵐山工場を竣工させた。
そして、1984年4月期にはレジストインキ売上高は22億円にまで達し、わずか8年で売上高は85倍という驚異的な成長を遂げた。その背景には、「コキャク・タイオ(ヨ)ウ・インキ」という言葉とともに、先進的な技術開発力と独創性溢れる製品を販売へと結びつける高い営業力がある。この言葉は、社員たちが独自に直販顧客の獲得を図り、一から販売ルートを築いていった努力の姿を表しており、現在の当社の企業姿勢にもつながっている。
さらに、当時のソルダーレジストの課題であった、基板に塗布し硬化した後に必要となる「現像」という工程における高コスト、火災のリスク、環境負荷に対応するため、1985年に「アルカリ現像型ソルダーレジスト『PSR-4000』」を発表。わずか約1年半で26社に採用され、当社を世界シェアNo1へと押し上げた。
知られざる裏話
「PSR-4000」を発表した頃、当社は特許の出願も精力的に行った。PSRの基本特許は、画期的な発明と評価され、1993年に日本で特許が成立した。その後、応用関連特許も順次成立し、当社の技術的優位は揺るぎないものになった。特許取得以降、海外で特許侵害製品が出現したこともあった。しかし当社は、双方が出資した新会社を設立することで、ビジネスとして成り立つ道を切り開いた。そして設立されたのが、台湾太陽油墨だった。
Chapter03
ソルダーレジストのシェアを
より強固なものに。


1990年、2代目社長・川原光雄の「日本にとどまらず、世界に羽ばたきたい。そのためには社会に認知される必要がある。組織強化のため、より多くの人材を集めたい。また資金調達にも太い道がほしい。」という想いによって株式を公開し、次なる目標として「東証一部上場」を掲げた。「PBF(パイオニア・ビッグ・フューチャー)= “大いなる未来を切り開くパイオニアとなれ” 」と名付けられたこのプロジェクトは、10年の時を経て2001年1月についに成功を収める。これにより当社は、21世紀で最初の東証一部上場を果たした企業となった。同じく2001年は嵐山北山事業所が完成した年でもある。
さらに中国のWTO加盟が実現し、13億人の巨大市場が自由化されたのも同じ年。当社は、中国市場を制すことが大命題だとし、太陽油墨(蘇州)有限公司を設立した。3年後には江蘇省科学技術庁よりハイテク企業の認定を受け、この他にも外商投資企業からは双優企業表彰、蘇州新区2006年度優秀企業表彰、さらには蘇州新区設立15周年式典での創業先進企業栄誉証書授与など、数々の賞を授かり太陽蘇州は中国から認められる企業となった。
知られざる裏話
嵐山北山事業所は、IT景気における出荷量の増加を賄うために建設がスタートした。また、海外の半導体パッケージ関連の顧客から、クリーン度に対する要求が強くなってきたことも一つのきっかけだ。製品特性向上の要求は3〜5年で一段階レベルアップする。一社から要求があれば、大半の顧客から同じ要求が出されることは確実であった。そうした背景のもと、工場の新設にあたっては「品質の安定と向上」、「生産性向上・コスト削減」「作業環境の改善」「環境対応」という4つのコンセプトが掲げられた。
Chapter04
総合化学企業として、
事業構造を変革させていく


2008年のリーマン・ショック以降、市場環境は厳しくなり、社内、特に海外子会社では意思決定を迅速化するための改革が求められていた。この課題を克服するため、持株会社にグループ・マネジメント機能と戦略機能を集約し、意思決定のスピードアップと経営効率化を図る目的で持株会社制へと移行したのであった。そして、現在の「太陽ホールディングス株式会社」へと社名変更を行った。
2011年には佐藤英志が5代目社長に就任し、経営理念を再定義。総合化学企業への飛躍を目指すべく、新規事業創出に注力することを決定した。そして、2017年に「太陽ファルマ株式会社」を設立し、医療・医薬品事業に参入。エレクトロニクス事業は高収益である一方、シリコンサイクルなど景気の波に左右されることもあり、市況に揺るがない事業の柱が必要であった。今後、少子高齢化の進む日本社会においてニーズが高まり簡単には需要が無くならない領域である点や当社がベースとしている化学に親和性がある点から、医療・医薬品事業に参入することでグループとしてのさらなる成長を目指した。そのほかにも、ICT、食糧、エネルギーなどと事業分野を広げた。「あらゆる技術」を高め、革新的な製品をもって、夢ある様々なモノをグローバルに生み出し、楽しい社会を実現する。太陽グループのさらなる挑戦は続く。
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