技術者は
社会に役立つものをつくって
初めて技術者たりうる
1953年、印刷インキの技術者だった川原廣眞は、
「技術者は、社会に役立つものをつくって、初めて技術者たりうる」
「いいものをつくれば必ず売れる」という信念のもと、それまで務めていた大手化学メーカー取締役のポストを捨てて、45歳で印刷用インキの製造販売を事業目的とした「太陽インキ製造株式会社」を興した。
社名には、世界を照らし、地球上のすべての生命に恵みを授ける太陽のように、社会を明るく照らし、人々の役に立ち続ける会社でありたいという願いを込めた。
時代は戦後から高度成長期に差し掛かろうとしており、その後の印刷産業の成長期と相まって、印刷用インキの販売量は年を追うごとに伸びていった。
レジストインキに将来を懸ける
創業以来、主力製品である印刷インキの売上高は年々伸び続けていたが、一方でインフレによる製造コストの上昇により営業利益は低下していくと同時に、大手インキメーカーの寡占化と系列化が進み、当社を含む中小メーカーにとっては、生き残ることが難しい状態となっていた。
そんな中、後に2代目社長となる川原光雄は、ある日、お客様より「耐酸性の強いインキをつくって欲しい」との依頼を受けた。苦心の末、製品を完成させたが、どうしても腐食ムラの発生を抑えることができず、実用性に乏しく採用には至らなかった。
しかし、川原光雄はこれを機に「これからは電子工業の時代であり、化学メーカーが商売にできるのはレジストインキである」と考え、当時まだ入社3年目だった若き吉野篤(後の3代目社長)にエッチングレジストの組成分析を命じた。
吉野はその課題に対し嬉々として取り組み、1970年にはレジストインキの開発を見事成功させた。当時、レジストインキの製造実績を持つ国内の独立系メーカーは当社のみであった。
その後、創業者のあとを引き継いだ川原光雄は、全社員との会議を経て、電子産業の将来性と印刷インキで培った技術力を背景に、価格競争から抜け出し高い収益性を確保するために「レジストインキに将来を懸ける」と大きな決断をする。
なにもしないで後悔するよりも
手を尽くしてから
後悔するほうがいい
レジストインキへと事業転換を決意した頃、国内の電機メーカーにおいては、円高と日米貿易摩擦による競争力の低下が要因となり、生産拠点を海外へ移す動きが顕著になっていた。
当社も、日本だけでなく海外マーケットにおいて、より一層レジストインキの普及を実現したいという強い思いから海外進出を決意した。そして、1978年に台湾、1979年には韓国へ向けた輸出を開始。当社の海外事業展開が本格的にスタートしたのであった。
一方、ソルダーレジストの出荷量急増により、当時の主力工場である新座工場の生産能力は、日増しに限界へと近づいていた。そこで1979年の秋、川原光雄は「出荷量の増加スピードを見れば、新座工場(埼玉県新座市)ではいずれ需要を賄いきれなくなる。工場をもうひとつ手当てしなればパンクする」と考えた。
社内では、「レジストインキが伸びているといってもまだ3年しか経っていないため不安だ」という声もあったが、川原は「これはノーマルな投資だ。せっかく上昇気流に乗ったのだから、ここは押しの一手だ。なにもしないで後悔するよりも、手を尽くしてから後悔するほうがいい」と述べ、新工場の建設を決意。
1982年には、新座工場の6倍の敷地面積となる嵐山工場(埼玉県比企郡嵐山町)を竣工させ、生産能力を飛躍的に拡大させることに成功した。
うちは
コキャク・タイオ(ヨ)ウ・インキ
嵐山工場建設による生産能力拡大は、大手メーカーの製品への採用にも繋がり、当社は驚異的な成長を遂げた。
この成功の背景には、電子産業の伸長とともに、当時、エポキシ樹脂をベースとした熱硬化型ソルダーレジストインキの開発に成功するなど、先進的な技術開発力と独創性溢れる製品を販売へと結びつける高い営業力があった。
当時、社内では「コキャク・タイオ(ヨ)ウ・インキ」という言葉があった。
当社は当時、営業体制がまだ整っておらず、業界的にもレジストメーカーが基板メーカーを訪れる慣習はほとんどなかった。
この言葉は、そんな時代に当社の社員たちが独自に直販顧客の獲得を図り、一から販売ルートを築いていった懸命な努力の姿を表しており、現在の当社の企業姿勢にも繋がっている。
こうして当社は、事業転換当時の1976年4月期のレジストインキ売上高である2660万円から1984年4月期には22億円にまで達し、わずか8年で売上高は85倍。数量ベースでも当初の21トンから1047トンへと48倍の驚異的な成長を遂げることとなった。
当社の生きる道はこれだ
ソルダーレジストは、基板に塗布し硬化した後、不要な部分を洗い流す「現像」という工程が必要となる。この現像工程において従来製品では有機溶剤を使用しており、高コスト、火災のリスク、環境負荷などの課題があった。
当社は、これらの課題を克服できれば確実に新たな需要を見込めると考え、1983年初頭に、新しい製品の開発に着手。その2年後に従来の課題を克服する「アルカリ現像型ソルダーレジスト『PSR-4000』」を発表する。
『PSR-4000』は、低コストかつ安全なアルカリ水溶液を使った現像を可能にする画期的な製品であり、販売開始からわずか約1年半で26社に採用され、当社を世界シェアNo1へと押し上げた。
この頃、当社は特許の出願も精力的に行った。PSRの基本特許は、画期的な発明と評価され、1993年に日本で特許が成立した。
その後、応用関連特許も順次成立し、当社の技術的優位はゆるぎないものになった。
日本にとどまらず
世界にはばたきたい
1980年代に入る頃、NICs(88年からはNIEs)と呼ばれる国と地域が急速に発展し始め、特に韓国、台湾、香港、シンガポールが躍進を遂げていた。これらの地域へ日本からの進出が進み、その傾向は円が急速に切り上がった80年代後半には顕著となった。
エレクトロニクス産業においても、例外なくプリント配線板に関わる多くの国内企業の拠点移転が予想されていた。PSRシリーズの成功と早期に特許を取得したことにより、競争優位性を獲得し、海外進出を本格化していた当社にとっても、海外市場の重要性が日増しに高まっていった。
その中でも、特に1979年に開始された韓国への輸出は、1985年時点において当社の売上高の約8%を占めるようになり、韓国内におけるシェアは5割にまで到達していた。
これを機に、1988年に「韓国太陽インキ製造」を設立。その後、アメリカ、台湾、香港、シンガポール、タイ、蘇州に拠点を置き、当社のグローバル化は加速していった。
大いなる未来を切り開く
パイオニアとなれ
1983年、川原光雄は「日本にとどまらず、世界に羽ばたきたい。そのためには社会に認知される必要がある。組織強化のため、より多くの人材を集めたい。また資金調達にも太い道がほしい。」との思いから、株式公開を目指した。
翌年には、取締役会で「今後、数年以内に株式の上場をめざす」と宣言し、1990年に株式公開を果たし、次なる目標として「東証一部上場」を掲げた。
「PBF(パイオニア・ビッグ・フューチャー)=”大いなる未来を切り開くパイオニアとなれ”」と名付けられたこのプロジェクトは、10年の時を経て2001年1月についに成功を収める。
これにより当社は、21世紀で最初の東証一部上場を果たした企業となった。
このとき川原は、次の夢を語った。
「一部上場にふさわしい会社にすることがひとつの夢でした。本日、ひとつの到達点に来て、次の夢は世界市場でシェア50%を達成することです。」
新しい工場をつくろう
つくる以上は
理想の工場をめざそう
これまで当社の生産キャパシティは十分であったが、1998年に様相は一変する。ITバブル突入により、出荷量が予想をはるかに上回るペースで増え始めたのである。
このままでは近い将来、嵐山事業所だけでは国内の需要を賄いきれなくなる。
そう考えた川原は、「新しい工場をつくろう。つくる以上は、理想の工場をめざそう」と述べ、工場の新設にあたり「品質の安定と向上」、「生産性向上・コスト削減」「作業環境の改善」「環境対応」という4つのコンセプトを掲げた。
こうして2001年に完成した嵐山北山事業所には、最新鋭の設備・機器を導入。すべての工程を可能な限り自動化し、製造プロセスにおいてはクリーン度の高い環境を実現、作業性の向上が図られた。
さらに受注・製造・出荷工程の全てにおいてバーコード管理を可能にするシステムを構築し、当時、考え得るあらゆる環境対応策が取り入れられた。
こうして当社の新たな国内主力生産拠点、嵐山北山事業所が開設された。
中国市場を制すことが大命題だ
2001年、購買力が二桁成長という驚異的な伸びを見せる中国では、WTOへの加盟が実現し、13億人の巨大市場が自由化された。
当社は、こうした背景に加えて、今後、電子機器の中国内生産が急増すると予測し、レジストインキの中国市場を制すことが経営上の大命題だと判断した。
同年、すぐさま中国での現地生産に踏み切り太陽油墨(蘇州)有限公司を設立。そして、中国生産拠点を設置する上で、次の3つのコンセプトを掲げた。
1.市場の50%をレジストインキにおいて占有する
2.市場の低価格要求に耐えうる製造コストを実現させる
3.第2、第3の製造拠点も視野に入れる
このときの早期経営判断が実を結び、3年後には江蘇省科学技術庁よりハイテク企業の認定を受け、この他にも外商投資企業からは双優企業表彰、蘇州新区2006年度優秀企業表彰、さらには蘇州新区設立15周年式典での創業先進企業栄誉証書授与など、数々の賞を授かり太陽蘇州は中国から認められる企業となった。
ホールディングス体制へ
そして総合化学企業への
飛躍を目指す
2008年のリーマン・ショック以降、市場環境は一転して厳しくなり、社内においては意思決定を迅速化するための改革が求められていた。
熾烈な競争が行われている中国市場を中心とする海外子会社では、意思決定のスピードが特に重要であり、早急に子会社のことは子会社内で決定できるようにする必要があった。
そんな中、4代目社長の釜萢裕一は、これらの課題を克服するため、持株会社にグループ・マネジメント機能と戦略機能を集約し、意志決定のスピードアップと経営効率化を図る目的で持株会社制へと移行する決定を下した。
そして、現在の「太陽ホールディングス株式会社」へと社名変更を行った。
ソルダーレジストにとどまらず、総合化学企業へ
2011年には、持株会社制への移行に対して大きく貢献した佐藤英志が5代目社長に就任、経営理念を再定義した。
経営理念には、研究・開発力だけでなく全てのフィールドで「あらゆる技術」を高め、ソルダーレジストにとどまらない革新的な製品を届けたい。形ある製品だけではなく、サービスを含めた夢あるさまざまな「モノ」をグローバルに生み出し、楽しい社会を実現することが当社グループの存在意義であるとの思いを込めた。
佐藤は、その経営理念のもと、ソルダーレジストへ大きく依存する従来のビジネスモデルから脱却し、総合化学企業への飛躍を目指すべく、医療・医薬品、食糧、エネルギー分野での新規事業創出に注力することを決定した。